昭和47年7月22日 朝の御理解
                                  中村良一
御理解 第68節
「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」



昨日も、この六十八節でしたね。昨日は、その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃという様なところを頂きました。今日は、その、先の所を頂いてみたいと思います。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃと。教祖様のご信心の、一番素晴らしいと思うところ、ね。ご自身のご信心の体験から、ここのところは、御理解下さってあると思うですね。もう、それこそ、無理に大きな音をさせることはいらぬ。小さい音でも、神には聞こえると仰っている。これなどは、例えば、教祖様が、心のなかに、思いなさっただけでも、神様と交流しておられる。もう、神様が、心の中まで見とってござる。心の中まで聞き届けておってござる。如何に、それが、元気な、大きな声をたてて、大祓いをあげたり、心経をあげたり致しましても、それが、神様の心に、有難く通うもんでなからなければいけない。ね。
私は、昨日、昨日で夏、夏季修行の後に、皆さんに聞いていただく御理解が、昨日、百節ですから、これで、一応、終わったわけです。それでも、夏季修行が終わったわけじゃないから、まぁ、どういう風にさせて頂こうかと思わせて頂いて、またもとの、一番初めに行ったら良かろうと。例えば、御神訓でも、御神誡でも、ね。そらもう、ここ、二十数年間ですね、お話をしてまいりましたけれども、一つの御教えが、本当に、同じ様な表現で頂いた事がない。全部違う。それほどに、教祖様の御教えというものは、広くて、そして、深いのです。ね。ですから、新たな、また、角度から頂けばいいのだから、また、一番初めに、振り出しに戻って聞いていただこうかと、こう思わせていただいておる。それで、一番初めが、立教神伝になります。で、この前は、立教神伝のことには、全然、触れていませんでしたから、まぁ、立教神伝を説明するとか、理解付けるとかという事じゃなくて、まぁ、立教神伝についてと言う様な事で、あの、頂きたいと思おうておったんです。そしたらね、その、今日の、ここの、如何に有難そうに、心経や大祓いをあげても、心に真がなければというところからも、今日、頂いてです。いかに、教祖の神様、金光大神様がです。天地金乃神様と、通いどおしに通うておられたかと、ね。心に思われたら、もう、それに対するお答えをなさっておられる、神様が。如何にその、教祖様のお心の中が、もう、真そのものであったかという事をです。ここでは、まぁ、自分の信心を、そのまま、説明しておられると言うても良いような感じです。ね。大事なところは、昨日、お徳を受けるためには、ここんところが大事であるけれども。ほんなら、そのお徳を受けられた教祖様のご信心の内容というものがです。ここには、説明してあるように思うのです。ね。
如何に、天地の親神様と、金光大神との、仲というか、素晴らしいことであったかという事を、私は、立教神伝に見る、教祖金光大神の信心というものがです。例えて申しますと、言うならば、お百姓にとって、農業、田に畑に出ると言うことは当然のこと。その、教祖様へ向って、その、もう、この幣を切り境に肥灰さしとめるから、その分に承知してくれと。ね。言うならば、家業を辞めてくれと、こう言うておられます。しかもそれが、段々、ね。天地金の神を助けると思うてと、言うようなところになってきておる。天地金の神様を助けると思うて、百姓を辞めてくれ。家内は後家になったと思うてくれと言った様な、まぁ、厳しいと言うか、難しいと言うか、ね。もう、普通でならば、相談の出来ないことを相談しておられるという事なんです。天地の親神様が、教祖金光大神に、ね。そこの所からです、私は、教祖様と天地の親神様との間に交流しておったものがです。どんなに、素晴らしいものであったかと。例えていうならば、ほんなら、私と、ご信者と言うても良いです。私が、どんな無理でも言えれる信者と言うからにはです。ね。それだけの交流というものが、日頃、なされておらなければ出来るはずはありません。
まぁ、ちょっとした例で申しますならば、私は、夏も冬も、この、ステテコをはくんです。あの、人絹のさらさらとしたステテコ。これは、昔から、私は、あぁ言う毛物なんかを着ませんから、もう、夏でも冬でも、あの、さらさらとしたステテコをはくんです。それがもう、前に沢山お供えいただいとったのが、もう、いよいよ、もう、フセだらけになって、しょうがなくなったり、洗い替えが、もう、そう何枚も無くなって、古くなった。ちょうど、高橋さんが、毎朝、私の着物をたたんで下さる、後で、部屋にきて下さるから、ステテコば、いっちょ、高橋さん、買うてくれんのち、私が、こう。それから、まぁ、そういう意味の事を申しましたら、家内がまた、そういう意味のことを言うけん、こらこら、お前が、そげなこついうちゃ出来ん。俺が言うぶんな良かばってんと言うて、申しましたことでした。ね。俺と高橋さんの仲だから言えるのであって、お前と、高橋さんの仲は、そんなもんであって良かろう筈がない。ね。神様の前にも、自分で布一寸買わないという事を建前にしてある。信者に、例えば、布一寸買うて下さいなんて、言うたりしようとも思わないし、けれども、もう、言わない以上のものが、私と高橋さんとの仲にはあるんだと。親先生が、きたなかね、私に、あげなことば頼まっしゃったと、絶対、高橋さんが思わないんです。いや、むしろ、それを喜ばれるです。ね。それを、ほんなら、家内がもう、先生のステテコが、どうもちぎれてしもうたから、高橋さん、いっちょお願いしますてんなんてん言いよるなら、奥さんが、どげなこっでん言いよりなさるち思うかもしれん。だから、お前が、そげなこついうちゃでけん、俺が言う分な良かばってんと言うて申しましたことですけれども、ね。そこまでに至るまでには、私と、高橋さんという間がです、ね。ほんなら、交流しとかにゃ出来んでしょうが。ね。それからと言うて、ほんなら、ちょっと、金ば、百万円ばっかり、あんた、貸してくれんのと言うところまでは行ってない訳です。まぁ、ステテコぐらいだから、言えれるだけの事。ほんなら、ステテコ一枚でん、買うて下さいて言えれる信者は、そげんおりゃしません。親先生、あげん何時も、それこそ、それがもう、いわば、先生の信心の様に、自慢のように、私だん、布一寸買おうとか思わんとか。信者には、これから先でん思うとらんばの、私はという様なことを言いよりなさってから。たった、ステテコぐらいな事を頼みなさったと、まぁ、思われてはなりませんし、また、だから言わんのじゃないですけれどもです。今日の御理解から言うと、如何に、教祖様と、天地の親神様との仲というものがです。それこそ、教祖金光大神に命をくれと言うとも同じことなんですよ。お百姓が、百姓を辞めてくれと仰ってるんだから、お百姓に対して。ね。
しかもそれがです。切々そして、教祖金光大神に、神を助けると思うてと言うように、頼んでおられると言うところから思うて見てです。如何に、教祖様と、天地乃親神様との間というものが、素晴らしい交流を見ておったかという事が分かります。勿論、立教神伝の、一番大切なところ、ほんなら、天地金乃神を助けてくれという事がです。昨日でしたかね、あの、御理解のなかにもありますようにです。ね。氏子あっての神、神あっての氏子繁盛いたし、末々、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行くと言う、ね。そういう助かりを見るという事が、天地金の神様の悲願であり、御神願なのだ。そこで、ほんなら、昨日も、ね。子供の助かりは、そのまま、親の助かりだといったような、昨日のですね、昼の御理解でしたか、そうでしょうが。子供が、本当に助かっている姿を、親が見たら、親も助かっとるとと同じことなんです。
どんなに、親が立派であっても、子供の中に屑の子がおってです、ね。それが、親に心配ばっかりかけよる様な事であっては、親は助かってるとは言われません。その人のことが、不安であり、心配である。どうなるじゃろうかと思うのです。ね。だから、子供の助かりという事は、そのまま、親の助かりで、私共の、だから、これは、ただ、病気が治りましたとか、ね。災難がよけられましたといった様な助かり、おかげではなくてです。真実と、昨日のことばに、特別、入れてありますですね。真実の、本当の助かり。人間氏子が、本当の助かりをするという事は、そのまま、天地金乃神の助かりであり、神の願いは、そこにあるのだという事なのです。いわゆる、あいよかけよで立ち行くという事は、そういうことなんだ。お前が助かって、私のほうば見てくれといった様な、ケチな考え方じゃないのだ。ね。神様、あなたのおかげでと、はぁ、氏子のおかげでと、例えば、お礼の言い合えるような世界というものが、金光大神出現の、言うなら、金光大神が出現しなさらなければならなかった理由が、そこに、いわば、ある訳です。ね。それほどしにです。例えば、随分、色んな宗教も沢山あった。宗祖、教祖という人達にです、ね。ほんなら、ここに沢山の信者があるけれども、ステテコ一枚でも、高橋さん、買うてくれという信者は、そうおらないという事。な。沢山の宗教家はあったけれどもです。お前に、命までもくれろと言うほどしに、打ち込んで頼まれる、いわば、宗教家は、いなかったという事が言えるのじゃないでしょうか。ですから、私は、この、立教神伝の、いわば、ものが、金光教、いわば、人が取り次ぎ助けられるところの道を開けてきたけれども、そういう道の開けてくる、その前夜というか、その前というものが尊い。その、立教神伝以前の教祖の信心が、素晴らしかったという事になるのです。
私は、そのことを、昨日、大阪のほうから見えておりました、あの先生ですね、泉南教会の先生に、今朝から、こういう事を頂きましたと言うて、お話をしたら、もう、そういうことは、初めて聞きましたと言うて、驚いておられました。立教神伝は、まぁ、あらゆる角度から、説明やら、教学的に聞いては来たけれどもね。立教神伝のくだり、その前の信心、信者氏子としてはです。その前の信心こそが大事であるという事なんです。ね。なら、おかげを頂く、もう、自由自在の、ほんなら、おかげを頂く前には、先生と信者との仲というものがです、ね。今、例えば、高橋さんが、どんどんおかげを頂いてある。頂いてある、その前の信心が素晴らしいんだという事になるのです。ね。十何年間なるでしょうか。その、十何年かの信心がです、如何に、私と、ある意味において、交流すると言うか、言うなら、親先生ぶりの信心とでも申しましょうか。いわゆる、大坪流とでも言おうか、の信心を身に付けようという事を、如何に精進されたかという事、そこが、だから、どげんすりゃ、おかげ頂かれるか。あげなおかげば頂きたいと言う前に、ほんなら、十年年間、私と、どういうところから交流したかという事を、先ず、知ることが、本当だという事になります。ね。そこで、親先生から頼まれたステテコを、今あの、ステテコて、なかなか売ってないそうですよ。ですから、もう、自分が、その気がなかなら、随分、あっちこっち見ましたばってん、ありませんよち言うて断わったっちゃ良か訳なんです。けれどもまぁ、あっちこっち、そしてから、いろいろなものを、沢山買うて来ていただいておる。縞のともありゃ、白いともあるといったように、ね。というほどしにです。ほんならば、私から、ステテコば買うてくれと言われたことを、ね。それこそ、立教神伝じゃないけれども、ね。それを、かしこみ、かしこんで、お受けになられたと言うところに、教祖の信心の素晴らしさがある。私と、高橋さんとの場合だっても、それが言えるわけです。あげん言いよりなさったけんで、聞いてみたばってん、なかですよ、今時、あげんとは売りよらんですよち。そげん言いなさったっちゃ良かもん。ね。
だから、それ以前の、例えば、立教神伝以前の信心がです、ね。その様にして、天地金乃神様と教祖金光大神との係わり合いが、段々、密なる物になって、どう言う内緒ごとでも、話し合える仲というものが生れてきた。または、どういう無理なことでも、頼めれる間柄になられた。ね。百姓に百姓辞めてくれと、という事は、命をくれと言うも同じこと。という様な事をです。神様が、手を着かんばかりにして頼んでおられると言うところに、如何に、教祖金光大神が、天地金乃神様のご神縁を、その間において受けておられたかという事が分かる。ね。いわゆる、神様と、金光大神の間にもう、それこそ、一生、はさむことの出来ないほどしの、密なる物がね、交流しておったという事なんです。そういうご自身の体験を、ここではお話しておられる、御理解しておられるんだと、私は思うのです。ね。どんなに、真を尽くされても、実意の限りを尽くされても、ほんなら、これで済んだとは思いませんという生き方。これだけの事したつだから、もう、他に仕様はないと言うのじゃ無くて、ね。もう、どれほど、実意を尽くされても、神様の前には、これで済んだとは思いません。人間氏子のことでございますから、どこにお粗末後無礼があるやら分からんという、いわば、姿勢をもって、真の限りを尽くされた。そのお心が、天地金乃神様に、何時も通うておった。なるほど、節をつけることも要らなければ、大きな声を出すことも要らなければ、ね。しかも、拝み言葉といったようなものでも、人に物を言うように頼めと仰った。すみません、神様お願いします。これで良い訳なんだ。問題は、ここに、真さえあれば。ね。必ずしも、祝詞言葉を使わなくても良いんだと。それを、私は、立教神伝の、下がる前の教祖の信心が、ここに、いわば、語られておるという風に思うのです。ね。そういう信心の過程というものがです。一番初めに戻りますと、神参りをするに、雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならぬ。そういう辛抱も、また、楽しく、だから、出来ると言うことになり。いよいよ、お徳の世界、ね。いわゆる、昨日の言葉を借りると、次元の違った世界に住むことが出来るようになるという事になるのじゃないでしょうかね。
例えば、これは、私の場合を言うても同じです。現在、この様におかげを受けておる時の姿よりもです。ね。ここまでに至るまでの、私の心配りというか、心栄えとでもいうか、ね。私の心の状態を、皆さんは、研究なさったほうが早かと、私は思うですね。私が、こげん、おかげば頂く前の私の信心ですね、いわゆる。神様が、ほんなら、そういう、どこにか、取り柄があったからこそ、神様が、こういう、いうならば、神頼みがあったんですからね、私にも。ね。お取次ぎというものは、ね。お前が、寝床におっても、風呂の中におってでも出来るんだと。だから、取次ぎをせよと。人を取り次ぎ助けてやれと。その代わり、もう、それこそ、身が腐っていくような病人でも、私が、保証人になりゃ助けてやると言う意味のお知らせがあったんです。格好だって、決して、羽織袴着けることは要らんと。もう、ランニングシャツ一枚、ステテコ一枚だけでも良いと仰った。お前のおるところが御結界ぞとまで仰った。だから、こっちは、簡単に引き受けたと。さぁ、ところが、ね。羽織袴どころか、もう、夏でも足袋はいとかんなんと言う様な事に、段々、なり、ならされて来たわけなんですけれどもね。だから、ここで言われるように、その、小さい音でもとか、拍手は小さい音でも聞こえるとか、節をつけんでもと言うけれども、段々段々、本当の事が分からせていただいて、お祈りさせていただく言葉も、なるほど、お粗末御無礼にならんような言葉を持って、または、ほんなら、格好の上においてもです、拍手でも、やはり、澄み切った拍手のほうが良いし、大祓いでも、やはり、一つのリズムに乗った、ね。聞いておっても、自分があげておっても、気分の良いような、私は、大祓いがあげられるようになってくるという事は、当然のことです。それをしちゃならん。けれども、その、根底になるものが、神様との交流をさせてもらう、その心の状態が大事だという事を、教えられたのであります。
今日は、そういう、教祖の心の状態、神様と、通われる心の状態を、自分の、言うならば、体験を、ね。自分がそうだから、そうだったから、ね。決して、こうでなからねばならんという事ではない。それこそ、例えば、如何に、形の上だけ立派に出来ても、まことがなからなきゃ、それは、神にうそをいうも同然じゃという風に医師得られたわけでsります。どうぞ。